鬼畜米英が始まったのは、1944年からの現象 岩波ブックレット「日本人の歴史認識と東京裁判」吉田裕著, 田口亜紀氏の「旅行者かツーリストか?十九世紀前半フランスにおける“touriste”の変遷」(Traveler or “Touriste”? 自由民主党にあった派閥。竹下派、小渕派。昭和62年(1987)に竹下登・金丸信らが田中派の大多数のメンバーを率いて独立して結成。党内最大派閥として影響力を発揮したが、平成5年(1993)に小沢一郎らが離脱して縮小。同8年に平成研究会に改称した。, 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 20:41 UTC 版), 平成研究会(へいせいけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥。旧称は経世会(けいせいかい)。略称は平成研(へいせいけん)。, 通称、竹下派(竹下登派→小渕派→橋本派→津島派→額賀派→竹下亘派)。自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤派)・木曜クラブ(田中派)の流れを汲む。, 1985年2月7日、自民党を離党しながらも派閥領袖として影響力を持ち続ける田中角栄に反旗を翻した竹下登、金丸信らを中心に、木曜クラブ(田中派)内に勉強会として創政会が結成される[1]。田中の激しい巻き返しに遭うが、27日に脳梗塞を発症した田中は政治活動ができなくなり、竹下の優勢が固まった。, 1986年4月25日、創政会は解散され[2]、反対派や中間派の取り込みが図られた。, 1987年2月28日、『国会便覧』第75版(日本政経新聞社)が発行される。この時点における木曜クラブ(田中派)所属議員は139人[3][4]。, 同年5月21日、東京プリンスホテルで開かれたパーティー「竹下登自民党幹事長激励の夕べ」には史上空前の1万3千人が参集し、田中派からの参加者は128人と9割以上に達した。欠席した二階堂グループの議員はわずか13人で、圧倒的な力の差を見せつけた[5]。7月1日、田中派の常任幹事会が開かれるが、総裁候補一本化をめぐる二階堂、竹下両グループの話し合いは決裂。ついに田中派の分裂が確定した[6]。, 同年7月4日、新派閥の経世会が結成された。参加議員は計113人[7][8]。派閥名は民生や経済を意味し中国の古典にある「経世済民」から取られた。会長には竹下が就任し、竹下派と呼ばれた。ここに至り、当時141人の議員を有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ(二階堂グループ)、(3)中立系の3つのグループに分かれることとなった。, 同年9月1日、『国会便覧』第76版が発行される。この時点における3派の所属議員は以下のとおり[9][10]。, 同年10月20日、中曽根康弘の裁定により、竹下、安倍晋太郎、宮沢喜一のうちの3人から、竹下が次期自民党総裁に内定した[11][12]。, 同年11月6日の竹下内閣発足時には、竹下派は121人に増えた。竹下の総理就任後、金丸信が経世会会長に就任した[10]。, 竹下がリクルート事件で辞任後も、最大派閥として、人事・資金の両面から自民党を、ひいては日本政界を実質支配し、「経世会支配」と呼ばれた。また、このころには竹下派七奉行などの有力政治家を擁していた。リーダーによる鉄の締め付けが残る経世会は「一致結束・箱弁当」と形容された。派閥名が変わった今日でもこの派閥を経世会と呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力を物語っている。, 竹下派の有力幹部は永田町のTBRビルに事務所を構えていたが、高級官僚や米国高官が総理大臣官邸よりも、TBRビルを優先して訪問していた様は、首相による権威の低下と経世会支配の象徴とされた。, 元は竹下が会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸が竹下退陣後も会長に留任し、日本における影の権力者として君臨。これを受けて最高権力者の竹下との関係が悪化した。特に、金丸子飼いの小沢一郎が自民党幹事長辞任後に経世会会長代行に就任し、金丸の庇護のもとに辣腕をふるったことは竹下に近い議員の反発を買った。この頃には、海部内閣の衆議院解散に際して小沢が反対して海部内閣が総辞職に追い込まれた海部おろしなどの動きがあり、海部内閣から宮澤内閣に至る時期は、金丸、竹下、小沢のいわゆる「金竹小(こんちくしょう)」が政府および自民党の実権を掌握していた。, 1992年10月14日、金丸は東京佐川急便事件の責任をとり、議員辞職願を提出し、会長も辞任した[13]。10月16日、経世会の総会が開かれる。出席者は所属議員109人中93人。竹下派を支えてきた七奉行がここで真っ二つに割れた。小沢支持グループは奥田敬和、渡部恒三に小沢を加えて3人。これに対し、反小沢グループは橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六の3人。派内状況の行方を決定付ける立場に立っていたのが、これまで独自の道を歩んでいた羽田孜であった。羽田は総会が終わると真っ直ぐに赤坂プリンスホテルに向かった。ホテルの一室に入ると、小沢を筆頭に奥田、佐藤守良、石井一、左藤恵らがいた。奥田は経世会新会長に一枚の文書を羽田に示した。誰を推薦するとは書いてなかったが、羽田を想定していることは明白であった。この会合から小沢支持グループの「羽田会長構想」がスタートした[13]。, この抗争においては、反小沢グループは小渕を担ぎ出す方針を決めた。衆議院は数が拮抗していたものの、実権を取り戻したい竹下が参議院は反小沢でまとまるよう青木幹雄に指示。加えて宮澤喜一首相が現職の蔵相である羽田の派閥活動を行きすぎがあるとして警告を発した[14]。, 10月21日、議院運営委員会で金丸の議員願が受理される[15]。同日朝、国会地区のキャピトル東急ホテル前で「羽田擁立集会」が始まった。そして午前10時、最高幹部会が開かれると、沈黙を守っていた金丸から小沢に「すぐに事務所に来い」と電話が入る。小沢が赴くと金丸は「いつまで子供みたいな喧嘩をしてるんだ」と叱責した。金丸の隣には竹下がいた。「ここは小渕で行くしかないだろう。敵が少ないのがこの際一番だ」と竹下は言った。「参院経世会を動かしたのは竹下さんですね。納得できません。卑劣じゃないですか」「だから君は若いんだ。参院の小渕待望論が亀裂の溝を埋めるんだ」「あなたの認識はずっとおかしい」[16], 竹下の説得は平行線をたどり、小沢は聞く耳を持たなかった。午後に再開された最高幹部会も膠着状態が続いた。午前0時を回ったとき、座長格の原田憲が突然席を立ち、記者会見で「新会長には小渕君が適任だと考える」と述べた。10月28日午前11時から始まる臨時総会で半ば強引に竹下子飼いの小渕の会長就任が決まった。それから5時間後、羽田は政策集団「改革フォーラム21」を結成すると発表した[17]。, 12月18日、小沢支持グループは「改革フォーラム21」を派閥に衣替えし、44人から成るグループ「羽田派」(代表:羽田孜)を正式に結成。これにより竹下派は党内第四派閥の小渕派と、第五派閥の羽田派に分裂した[18]。, 1993年6月、羽田・小沢派は離党して新生党を結成。細川護煕を首相とする非自民政権を樹立した。, 細川・羽田内閣と非自民政権が短期間で崩壊、村山内閣が成立し自民党が与党に復帰すると、小渕派も次第に勢力を回復した。1995年の総裁選で竹下は派閥幹部の橋本龍太郎の擁立を決定。総裁就任後、1996年1月の村山内閣退陣をうけ、後任の総理大臣に就任した。その間、党内の派閥解消運動や、小派閥転落で事務所維持費が厳しくなったため、田中派時代より入居していた砂防会館から経世会の看板を下ろし、平成政治研究会に改称した。その後、平成研究会に改称。, 1998年7月の参議院議員選挙で敗北すると、竹下は即座に総理総裁職を橋本から派閥会長である小渕へ交代するよう指示。後継の会長には綿貫民輔が就任した。この決定を不服として、梶山静六は派閥を退会して独自に総裁選に出馬。竹下は小泉純一郎を出馬させて三つ巴の形を採り、それまで「一致結束・箱弁当」と呼ばれた小渕派が初めて綻びを見せた。この頃から、派閥のアキレス腱として小渕派の後継者が不在であることが囁かれ始める。将来をつなぐはずだった若手のほとんどが小沢・羽田らと共に自民党を離党したためである。, 2000年に小渕、竹下が相次いで死去。7月に綿貫が衆議院議長に就任し派閥を離脱したため橋本が後任の会長に就任した。しかし、実質的に派閥の実権を握っていたのは、野中広務と青木幹雄であった。, 橋本は、2001年4月、森総裁の後任の自民党総裁選挙に出馬したが、小泉純一郎に大敗した。田中派以来、「一致結束・箱弁当」と呼ばれる鉄の団結を誇ったが、小泉政権成立以降、総裁候補が不在のままとなり求心力が低下した。また、角福戦争以来の怨念を抱く小泉首相からは、「抵抗勢力」と位置付けられて目の敵にされ、小泉政権では2003年9月まで橋本派は党執行部から外された。橋本派が党執行部ポストに就任できなかったことは過去を遡ると田中派時代の三木政権(1974年 - 1976年)以来25年ぶりのことであり、橋本派の影響力低下を物語った。, 2003年の自民党総裁選挙において、反小泉の急先鋒であった野中が独自候補の擁立を主張したものの、青木幹雄や村岡兼造が小泉支持を表明したために野中は完全に孤立。総裁選のさなかに野中はこれを理由に議員引退を表明する事態となった。派内からは笹川尭・熊代昭彦など複数の会員が公然と出馬意欲を示すなど大きく混乱したが、最終的に藤井孝男を擁立。派内の支持をまともに得られない中で藤井は落選し、小泉が再選された。その後の小泉政権下の党役員人事では2003年9月から2004年9月まで額賀福志郎が政調会長に、2004年9月から2006年9月まで久間章生が総務会長に起用され、久々に党三役ポストを得た。, 2004年日歯連闇献金事件が浮上し、野中広務や青木幹雄が立ち会う形で橋本龍太郎が1億円の小切手を受け取り、政治収支報告書に闇献金として処理していた疑惑が浮上(この疑惑では村岡兼造元官房長官が在宅起訴され有罪)。2004年7月30日、橋本は責任をとる形で会長を辞任。派からも離脱し、2005年の衆院解散で政界を引退した(その翌年に死去)。その後、綿貫民輔元衆議院議長、次いで保利耕輔元自治大臣兼国家公安委員会委員長の会長就任の声が上がるも、両者共に固辞した。, さらに、郵政国会での郵政法案の対応を巡り2005年の第44回衆議院議員総選挙で綿貫・保利ら法案反対組が非公認となり、党内第一派閥の座を森派(現・細田派)に明け渡した。, 会長不在の状態が続いたが、第3次小泉改造内閣が成立した4日後の2005年11月4日、会長に津島雄二が就任。2003年9月の自民党総裁選以来、派内で続いている衆院と参院のわだかまりの解消が大きな課題であった。また、衆議院幹部の多くが、1993年以降の政界再編の中で離党後に復党した「出戻り」(ほとんどが小沢一郎率いる新進党からである)や「外様」議員(鳩山邦夫(2010年に2度目の離党)・笹川堯・石破茂・船田元など)となり、生え抜きは額賀などの少数派となった。会長の津島も元は旧宮澤派出身の出戻り組であった。, もともと経世会分裂とその後の嘘つき解散において、船田元・鳩山邦夫などの将来を担うと目された議員が離党ないし派閥離脱し(その後大半が復党したが、鳩山邦夫は再度自民党を離党、船田元は落選した)、"NYKK"の一人といわれた中村喜四郎(現在は無所属)がゼネコン汚職事件で失脚するなど、人材が不足する中で藤井孝男・鈴木宗男・額賀福志郎が「御三家」とみなされるようになった。しかし、鈴木が2002年に不祥事で失脚し、離党と橋本派離脱を余儀なくされたほか、藤井も2005年の郵政政局で離党・落選した(藤井は2007年の参院選で当選し、復党と同時に再入会をしたが、2010年に再離党し新党たちあがれ日本を結成)。, このため最後まで残った額賀福志郎を総理総裁候補として育ててゆく方向であるという見方が強くなったが、久間章生や青木幹雄が総裁選のたびに額賀擁立に賛同しないなど、自他共に認める総理総裁候補とは言い難い状況であった。また、鳩山邦夫は派閥復帰後も麻生太郎の盟友として活動し、派としての行動の統一がとれなかった。さらに、郵政造反組で復党した議員の多くが他派閥に移籍するか無派閥となっており、世話する幹部が不在となった。, 2007年の第21回参議院議員通常選挙では、片山虎之助参議院幹事長をはじめ、武見敬三厚生労働副大臣、青木幹雄参議院議員会長の地元島根県選出の景山俊太郎など、議員立候補者が次々に落選し、参議院においても町村派に次ぐ第2派閥に後退した。, 2008年の福田康夫総裁の辞意表明を受けた自民党総裁選で、麻生太郎や与謝野馨に支持表明する派閥幹部が出る中、若手や中堅を中心に石破茂を擁立し、石破が総裁選に立候補したが5位で敗れた。, 総裁選後、鳩山邦夫を中心にした戸井田徹、吉川貴盛、馬渡龍治、田村憲久、河井克行の通称「鳩山5人組」も分派行動をとり始めた。鳩山が総務大臣を更迭された際には、集団離脱が懸念された(第45回衆院選で戸井田、吉川、馬渡は落選)。, 2009年7月19日、会長の津島雄二が第45回衆議院議員総選挙の直前になって不出馬・政界引退を表明した。同選挙で自民党は結党以来初となる衆議院第一党の座を明け渡す大敗北を喫し、平成研も改選前の45議席から1/3以下となる14議席へ勢力を激減させた。, 2009年9月8日、津島雄二の引退と総選挙大敗の結果を受けて臨時総会が行われ、会長代理の額賀福志郎が会長に就任した。, 額賀の会長就任後、政界再編や新党結成などを主張していた鳩山邦夫が離党し、派閥解消を唱える石破茂が2011年に政調会長を離任後に派閥へ復帰せず離脱するなど所属議員の数が減少を続け、党内第三派閥に後退。 2012年の総裁選にも派閥内で候補を擁立することができなかったものの、第46回衆議院議員総選挙で自民党大勝の影響から49議席まで勢力を広げ、党内第二派閥に復活。, しかし2015年の総裁選でも独自候補を擁立できず、さらには2017年に麻生太郎率いる志公会が発足したため再び党内第三派閥に。安倍内閣の主流派であるにも関わらず額賀の求心力に大きな疑問符がついていた。, 額賀の就任以降、指導力に派内で長らく不満がくすぶり続けたが、2018年1月に参院幹事長で参院平成研会長の吉田博美を中心に派内の参院議員が集団離脱を盾に額賀の退任を要求。額賀は3月に退任を表明し、後任に創設者の竹下の異母弟である竹下亘を指名した[19]。, 4月に竹下が会長に就任、これにより、26年ぶりに「竹下派」が復活(「大政奉還」とも表現された)。会長代行には茂木敏充と吉田を据えた。, 同年9月の総裁選では、竹下は派として一致した対応を模索したが、派内の衆院議員の多数は現総裁の安倍晋三を推す一方、参院側では青木幹雄の影響などから対抗馬の石破茂支持となり衆参で分裂。事実上の自主投票を選択せざるをえなくなり、かつてのような「鉄の結束」とは程遠い姿を、またしても露呈することになった[20]。, 2019年1月9日、竹下が記者会見し、食道癌であることを公表し、会長にはとどまるものの、派閥の運営は当面、最高顧問の額賀、会長代行の茂木、吉田らに委ねることになった[21]。会長代行の吉田も病により、2019年7月21日投開票の第25回参議院通常選挙に出馬せず引退し、同年に死去した。, 平成研究会とは別に参議院平成研究会として、参院の派閥議員に加え三原じゅん子ら無派閥議員10人が参加している[25][26]。, 所得倍増計画 - 農業基本法公布 - OECD加盟 - 東京オリンピック - 岸派分裂 - 財界四天王, 日韓基本条約 - 非核三原則(日米核持ち込み問題) - 公害国会 - 日本万国博覧会 - 沖縄返還(西山事件) - 佐藤派五奉行 - 黒い霧事件 - 日通事件, 日中国交正常化 - 日本列島改造論 - 第1次オイルショック - 第一次角福戦争 - 青嵐会結成 - 椎名裁定, 田園都市構想 - 総合安全保障構想 - 第2次オイルショック - ダグラス・グラマン事件 - 四十日抗争 - 第三次角福戦争 - ハプニング解散, 新保守主義 - 「戦後政治の総決算」(国鉄分割民営化ほか) - 二階堂擁立構想 - 死んだふり解散 - 創政会結成と田中派分裂 - 皇民党事件 - ニューリーダー(安竹宮)と中曽根裁定, 消費税導入 - 昭和天皇崩御 - 竹下派七奉行 - ネオ・ニューリーダー - リクルート事件, バブル景気 - 自衛隊初の海外派遣 - YKK - 一龍戦争 - 一六戦争 - 安倍派四天王分裂と三六戦争 - 海部おろし, バブル崩壊 - 東京佐川急便事件 - ゼネコン汚職 - KK戦争 - 経世会(金竹小)分裂 - 嘘つき解散, 自公連立政権 - 聖域なき構造改革 - 金融再生プログラム - 郵政民営化(郵政国会 - 郵政解散) - 年金未納問題(政治家の年金未納) - 小泉劇場(小泉旋風)と抵抗勢力 - 日歯連事件(日歯連闇献金事件) - 中二階と麻垣康三, 美しい国 - 憲法改正論議(国民投票法) - 防衛省昇格 - 教育基本法改正 - 価値観外交(自由と繁栄の弧) - 再チャレンジ - 年金記録問題 - フールファイブ - 大宏池会構想 - 参院選惨敗、第一党より転落 - 麻生包囲網, 参院選勝利、改選第一党へ復帰 - 東日本大震災 - 三党合意(社会保障と税の一体改革), 結党以来初の総裁再登板 - 近いうち解散 - 3年ぶりの政権奪還、自公で2/3確保 - アベノミクス - 参院選圧勝、ねじれ解消 - 2020年五輪東京に決定 - 国家安全保障会議創設 - 特定秘密保護法 - 防衛装備移転三原則 - 地方創生 - 一億総活躍社会 - 集団的自衛権の行使容認(平和安全法制) - テロ等準備罪新設 - 都民ファーストの会と三大政党制 - 憲法改正 - 憲政史上初の皇位継承(令和改元), 宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派 → 加藤派)、※大勇会(河野派 → 為公会(麻生派) → 麻生派に合流×)、志公会(麻生派)、※宏池会(小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×)、宏池会(堀内派 → 丹羽・古賀派 → 古賀派)、宏池会(古賀派 → 岸田派)、有隣会(谷垣グループ), 木曜研究会(佐藤派)、周山会(佐藤派)、周山クラブ(保利派 → 福田派に合流×)、※七日会(田中派)、政治同友会(田中派)、木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下派 → 小渕派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×)、平成政治研究会(小渕派)、平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下派), 白政会(大野派)、睦政会(大野派)、一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派 → 巽会(水田派 → ×)), 十日会(岸派 → )、党風刷新懇話会(福田派)、党風刷新連盟(福田派)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、紀尾井会(福田派)、八日会(福田派)、清和会(福田派 → 安倍派 → )、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、清和会(三塚派)、21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×)、21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派)、清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派), 春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派)、政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → )、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派)、※さいこう日本(甘利グループ)、政策科学研究所(村上派)、志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → )、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×)、志帥会(伊吹派 → 二階派), 政策研究会(松村・三木派)、政策同志会(松村・三木派)、政策懇談会(松村・三木派 → )、※(松村派 → ×)、政策懇談会(三木派)、※(早川派 → 福田派に合流×)、新政策研究会(河本派)、番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×), 無派閥連絡会、無派閥有志の会、さわらび会(石破グループ → 水月会(石破派))、のぞみ(山本グループ)、きさらぎ会(鳩山グループ → 菅グループ), 総裁 - 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日歯連事件に絡み、橋本が会長職を辞任し、派閥を退会。以降会長職が空席に。.
「経世会」は、中国に接近しました。(が、歴史的に、中国と「太いパイプ」を構築したのは、小沢一郎さん、二階俊博さんなど、「経世会」から離脱していった人たちでした。) Copyright©

「経世済民」自体も、中国の晋代(三~五世紀)以前にはあったかもしれません。 当時の「 抱 ほう 朴 ぼく 子 し 」という書物の中に、「経世済俗」という、ほぼ同じ意味のことばが出てくるからです。 用語「人流」「観光」「ツーリズム」「ツーリスト」, 中国語の中の日本語(Chinese Borrowings from the Japanese Language)陳 生保(Chen Sheng Bao) 上海外国語大学教授はじめに  「共産党 幹部 指導 社会主義 市場 経済」 という文は、すべて日本製漢語語彙でできているといったら、こ れらの語彙をさかんに使っている普通の中国人は信じかねるだろうし、これらの語彙の原産地の日本人も、たぶん半信半疑だろうが、しかし、それは事実である。私が十年前にこれまでの先行研究をふまえてまとめた「中国語の中の日本語」 は、その間の消息を伝えている。   現在、日本語は毎年一万語(その多くは音訳による外来語だろうが) のペースで新語が増えているそうである。ところが、二千年の長きにわたって中国語の中に入った外来語は、たったの一万語にすぎない。そして、そのほぼ一割に当たる千語の外来語は、日本製漢語語彙なのである。 千語ぐらいといえば、多くはないと思われるかもしれないが、しかし、ほかの九割には 「仏陀」 など、仏教からの外来語が多く、死語に近いものがかなりあるし、日本語来源の語彙のほとんどは現代生活に欠かせない基本的概念であり、使用頻度の高いものであり、しかも造語力のあるものが多い、ということを考えると、現代中国語における日本来源語の影響が非常に大きいといわねばならない。、日本留学ブーム日本語のなかに古代の中国語から来た語彙がいっぱいある。それと同じように、現代中国語にも日本語がたくさん入って住みついている。これらの日本語は十九世紀の末ごろから中国語のなかに入ったのである。   清の末期、中国の国勢が急速に衰えた。特に鴉片(あへん)戦争以後、中国は各列強の侵略の対象となり、次第に半ば殖民地化していった。中国人は亡国の危機感に襲われ、愛国の志士たちは、痛ましい現実に目ざめて、国を救う道をさがし求めていた。隣国の日本が明治維新後まもなく資本主義の軌道に乗るようになったのを見て、康有為・梁啓超を代表とする中国の一部のインテリが、中国も日本に倣って維新することを主張し出した。一八九八年に起こった戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)は、ほかでもなく日本の明治維新の影響によるものだったのである。戊戌変法は結局失敗に終ったが、その指導者の一人である梁啓超が日本に亡命し、横浜で新聞 『清議報』 と雑誌 『新民叢報』 を出版し、続けて中国の維新を鼓吹した。そして、彼の新聞、雑誌には日本の事が盛んに紹介され、日本語の語彙がたくさん使われていた。梁氏はまた 『日本語を学ぶ利益を論ず』 という文章をしたためて、中国人に日本語を学び、日本の本を読むように呼びかけたのである。   第一陣の中国留学生が日本入りしたのは、一八九六年のことで、十三名だった。それが年とともに増えた。例えば 一九〇一年  二八〇名 一九〇四年  一三〇〇名以上 一九〇五年  八〇〇〇名統計によると、八千名は最高記録だったがこうした日本留学ブームは一九三七年の、中国に対する日本帝国主義の全面的な侵略戦争の爆発まで続いた。一九三六年六月一日当時の在日中国留学生は五八三四人だったが、戦争開始後、みな中国に引き揚げた。一八九六年から一九三七年までの足かけ四十二年の間における中国人の日本留学生の数は、合わせて六一二三〇名に達している。そのなかで学校を卒業したものは一一八一七名である。中国で最初に出版された『共産党宣言』は、日本語版から翻訳されたのである。訳者は、今は亡き元上海復旦大学学長・陳望道氏である。おびただしい日本の本が中国語に訳され、出版される一方、他方では留学生たちが日本書を読んだ影響で自分の文章にたくさんの日本語を引用した。そのほかに当時の日本は中国、とくに上海で多くの新聞・雑誌を刊行していた。こうして大量の日本語が中国語のなかにどっと入りこんだ。もちろん日本語といっても日本語の語彙が主で、表現法も少々入った。はじめのころは、日本の訳語と厳復らがつくった訳語が共存した。例をあげてみよう。   「Economics」 という英語は日本語で 「経済学」 と訳されているが、それにはとても抵抗を感じたようである。なぜなら 「経済」 ということばはもともと中国の古語であり、「経世済民」 の意である。「経世済民」 とは世の 中を治め、人民の苦しみを救うことである。現代語におきかえるならば大体 「政治」 という語に相当するからである。現に竹下登前首相の 「経世会」 は 「経世済民」 という言葉をふまえたように思われる。いうまでもなく、それは政治家のグループであって、経済の組織ではない。そのため厳復は 「計学」 と訳し、梁啓超は 「資生学」 または 「富国学」 「平準学」 という訳語を使った。ちなみに 「平準」 は 『史記』 に出ている言葉で、物の安いときに官が買い入れ、高いときにそれを売り出して物価を調節する制度で、前漢の武帝に始まる。そのほか 「哲学」 (Philosophy) は 「理学」 「智学」 と共存し、「社会学」 (Sociologie) (仏語) は 「群学」 と共存した。日本来源の語に対する研究清の末期、日本留学ブームがでてから、日本語の語彙集、辞書類、教科書などが数多く出版されたとはいえ、中国語の中の日本語に対する研究が本格的に行われるようになったのは、新中国になってからである。つまり中国語の規範化と文字改革を進めるために、中国語の中の外来語を今後どうするかという問題に直面したのである。そのためにはまず中国語の中の外国語の状況を明らかにする必要があった。一九五八年、中国の有名な言語学者高名凱・劉正王炎の 『現代漢語の中の外来語研究』、王立達の『現代漢語中日本語から借りて来た語彙』 を皮切りに、中国語の中の外来語が研究され、一九八四年には『漢語外来語辞典』 が出版された。「現代漢語の語彙に対する日本語の影響はたいへん大きい。現代漢語における外来語の主要なるものは日本語から来ている。日本語は漢語外来語の最大の源だといっても過言ではないだろう。おびただしい数にのぼる西洋語のほとんどは、日本語を通じて現代漢語の中に導入されたのである」。その影響を具体的にいうと、次の三点が挙げられる。(一)、中国語の語彙の複音化のテンポを早めた。   中国の古代語 (日本でいう漢文) にも、二つまたは二つ以上の文字でできた語彙も少々あることはあるが、非常に少ない。ほとんどは一つの文字が一つの語彙になるのである。語彙の複音化、つまり二つまたは二つ以上の文字で一つの語をつくることは、中国語が古代語から現代語へ脱皮する過程での趨勢だが、日本語をはじめとする外来語の進出によってその脱皮のテンポが早められたといえる。(二)、語の複音化によって語義が細くなり、表現がいっそう緻密になり、正確になった。   例えば、「行」 という語は古語では 「行く」 「走る」 「行為」 「行動」 「行進」 などの意を有する多義語だったが、現代漢語では複音化によって、いくつかの語ができ、表現がもっと的確になった。(三)、西洋的な表現がたくさん入り、中国語のセンテンスが長くなった。   新語の大量導入、語の複音化と表現の緻密化、長文の活用など、これらはいずれも古代漢語から現代漢語への脱皮であり、中国語の進歩である。こうした中国語の進歩は、世界各国の進んだ文化の吸収、はては中国の現代化実現に役立つものであろう。日本語の場合も同じようなことがある。辞書によって多少差はあるが、日本語の語彙は、今でも半分ぐらいは 漢語語彙だそうである。その大部分は古代中国語から来たものであり、その一部分は日本でつくられたものである。しかし、日本人は中国来源の漢語語彙を外来語だと、まったく見なしていないし、それが中国からのことば だと意識する人も、非常に限られているだろう。これはなんと不思議な現象だろう。   もう一つおもしろいことがある。同じ書き方のことばでも、その読み方は中国人と日本人でぜんぜん違う。例えば 「哲学」 ということば-これはギリシャ語 「Philosophia」 の意訳語だが、中国人は 「zheque」 と読み、日本人は 「Tetugaku」 (てつがく) と読む。読み方がそれぞれ違っていても、同じ意味で理解する。そして中国人も日本人も、それを外来語と見なさない。こういう現象は、たぶん漢字文化圏内、とくに中日両国間にしかないものであろう。   以上述べたことは、中日両国間の文化交流の歴史の長いことと影響の深いことを、あますところなく立証していると思う。, 中国文明受入以前は自然状態であったとする賀茂真淵、日本文化があったとする本居宣長に対して、藤貞幹, 関係学会における発表で、マインドリーディングを活用した論文がみられない。観光行動等は、楽しみの旅に関, 対独戦争をあくまで回避するべきと主張したチェンバレンら英国保守層 対独戦争は膨大な国力を消費し、アメ, 「日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」NHKスペシャル取材班、P344-35, 靖国神社情報交換会に参加した。歴史認識は重要な観光資源であるとする私の考えに共鳴されたメンバーの一, 2015年4月15日のブログに「羽生敦子立教大学兼任講師の博士論文概要「19世紀フランスロマン主義作, クルーのシステムが本年1月いっぱいメンテナンスに入り、再開は2月と報道されていた。HPにも出ている, 日本から出たことがないのでわからないのですが、日本は本当に治安が良いのですか?松本 貴典 (Tak, 実際には、ロシアの極東での圧力を押し返して講和が結ばれただけだから、講和によって得られたのは、遼, 新潮文庫の『駅前旅館』を読み、映画をDVDで見た。世相はDVDの方がわかりやすいが、字句「観光」は. ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. 2019 All Rights Reserved. 「清和会」と「経世会」は、戦後自民党を支えた2大派閥であり、「清和会」は親米を政策に掲げ、「経世会」は日本の独立やアジア諸国との融和がその政策です。 どちらも首相を多く輩出しまさに日本の政治を動かしてきた派閥です。 今回は、この2つの派閥に迫ります。 公開日:

: Distinctions in Meaning in Nineteenth Century France)共立女子大学文芸学部紀要2014年1月を読んで, キャッシュレス時代における2019年1月14日付東京交通新聞「クルー」の記事の書き方. 税理士法人経世会は、企業経営から相続・事業継承まで名古屋と東京で幅広く対応いたします。法人税・所得税・相続税など税務・会計・手続きのことなら何でもご相談ください。
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中国共産党を裏から操っているのが洪門天地会(チャイニーズフリーメイソン)です。 洪門(ホンミン)は17世紀中国の明朝末期清朝初期ごろ満州族の清を倒すために結成された漢民族の秘密結社です。 2019/05/16 「経世済民」 とは世の 中を治め、人民の苦しみを救うことである。現代語におきかえるならば大体 「政治」 という語に相当するからである。現に竹下登前首相の 「経世会」 は 「経世済民」 という言葉をふまえたように思われる。 : 仏教用語。仏道修行に励まないこと。怠りなまけること。六大煩悩の一つあるいは二十随煩悩の一つとして数えられる。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 同年7月4日、新派閥の経世会が結成された。参加議員は計113人 。派閥名は民生や経済を意味し中国の古典にある「経世済民」から取られた。会長には竹下が就任し、竹下派と呼ばれた。 観光学博士・寺前秀一のブログ , …また,経済はしばしば伝統慣習経済,市場経済,指令経済の三つに分類されるが,伝統,市場,指令は一経済のなかに並存する要素の若干であるにすぎず,それ以上の意味をもたせることはできない。[〈経済〉という語の系譜] 〈経済〉という語は中国晋代の書《抱朴子》〈外篇〉にある〈経世済民〉に発し,これを略したものといわれる。〈経世済民〉とは,〈世を治め民をたすける〉という意で,現在いうところの,政治にかかわるもろもろの事柄をさしていた。…. 劇場型選挙で騒がれている中で一人の政治家が引退を表明しました。 小泉の反経世会闘争勝利の日 橋本元首相、地元・岡山で政界引退を公式表明 「体調悪い」 自民党の橋本龍太郎元首相(68)は20日午後、岡山県倉敷市で開いた後援会の会合で支持者に対し「体調が悪いので政界では働けない。 QUORA 日本から出たことがないのでわからないのですが、日本は本当に治安が良いのですか?松本 貴典 (Takanori Matsumoto), Quora 日露戦争の勝利を日本国民はどれくらい喜びましたか? Furukawa Yutaka Furukawa Yutaka, 素人軍事・歴史批評家, 羽生敦子立教大学兼任講師の博士論文概要「19世紀フランスロマン主義作家の旅行記に見られる旅の主体の変遷」を読んで, 学生・社会人のための人流・観光基本知識~2020年東京オリンピックに向けて人流・観光を正しく考えるための教科書~, 中国語の中の日本語(Chinese Borrowings from the Japanese Language) 陳 生保(Chen Sheng Bao) 上海外国語大学教授.